かおる亭・死を考える

数年に一度の割合で、死を現実として意識する機会がある。
今回↓のように「もしかして」の時は特に。
そうでなくても、私はいつも死を頭の中に置きながら生活しているので、
死について考えたり語ったりする事を気軽に考えている。
それは、私がクリスチャンであり、死んだらすべてが終るとは考えていないせいかもしれない。





死んで全てが終りだとしたら、こんなにむなしい事はない。
でも私は、生れる前も、死んだ後も、私自身として存在していると信じている。
だからこそ、死について正面から受け止めて考える事ができる。

今バカな事を言いながらこんな生活をしているけれど、ちょっと何かがズレていたら、私は35才で死んでいたはず。
病気そのものは初期で助かったけれど、手術に付随する医療ミスなどがあり、手術そのもので死んでいた可能性は大きかった。それに初期とは言えども悪性リンパ腫。白血病の親戚みたいな病気だし、今でこそ助かる人も多くなっているけれど、やはり病名を聞けばかなり冷や汗が出る病気だ。
当時4才から9才までの4人の子どもがいながら、あのような現実に直面するのはキツかったに違いない。他人事のようにこう思うのは、あの経験から私は「違う自分」になってしまった感覚を持っているから。激やせした事で容姿まで変わり、さらには考え方や感覚まで変わってしまった。
もし今目の前にあの時の自分がいたとしたら何と声をかけるだろうか。他人事として考えるなら、やはりかわいそうでならない。
でも人間は不思議なものだ。自分に起きた出来事にはもっとドライな感覚になれる。時間がかかろうと、現実を受け入れる力を持っている。

もし死ぬならガンで死にたいとずっと思っている。もちろんもっと楽な死に方があるならそれがいいけれど、病気である以上どの死に方でも大変には違いないはず。
事故や突発的に死ぬ病気になるなら、死ぬまでに少しでも時間のあるガンがいいと思っている。個人的な日記やら、私物をごちゃごちゃにしたまま逝きたくはないので、身の回りをきれいにする時間がどうしてもほしい。そして、「死にたくない」と思いながら死ぬのもイヤだ。
最後の最後まで死を受け入れられず、たくさんのチューブにつながれて尊厳を失って死んでいきたくはない。
大切な人たちとしばしの別れを共に悲しみ、言葉を交わし、お礼とさよならを言いたい。
私はそういう死に方をしたい。

先の事は誰にもわからないけれど、なんとなく、私は自分の家族の中で一番先に死ぬような気がしている。気がしているだけだから気のせいという事もある。
だいたい、死ぬ死ぬと言葉にしている人間ほど長生きするものだ。
ただ、自分自身だけについて言えば、言葉で言うほど死に対して悲壮感はない。
今の生活においての情熱も何もかも、実はスパっと捨てられるようにも思っている。思っているというよりも、そうありたいと願っている。
どんなに大事な楽譜も、ピアノも、家族も友人も、死ぬ時には持っていけない。大事だ大事だと言うのは、この世だけのものであり、死ぬとなれば即そこから手を放さなければならない。
ある意味でのチャンネル切り替え。
そして私はこのチャンネル切り替えが得意なタイプかもしれない。

私は非常に心がもろい。傷つきやすい。よくガラス細工のような心という言いかたをするけれど、私はどちらかというと粘土のような感じ。ダメージを受けるとその形がそのまま残り、なかなかもとの形に戻れない。おまけに体がタフではなくなってしまったから体と心がマイナスな形で連動してしまうととてもツライ状況になる。
しかし幸いなことに、私にはとても強い精神力がある。つまり頭の方。頭でコントロールする方の自分。
意思のエネルギーが強いため、心の弱さをかなりの力でカバーしている。
弱さもあり、強さもあり。フクザツでありながらも人間のすばらしい所。
だからこうして今まで生きてこられた。自分に与えられた弱さと強さに感謝している。

自分の存在は自分だけのためにあるわけではない。
たとえたった一人で生きていようとも、自分の命を好きにしていいわけではない。
ましてや家族がいるなら、自分は自分だけのものではない。
そしてさらに言えば、「親」として存在しているのなら、どんな事をしても子どものためにありつづけなくてはならない。
私は自分だけのためにこの命があるとしたら、あまり生きる事に執着はしないかもしれない。
この世で働くか、次の世界で働くかは神様が決める事だから、いつでもそれに従える気持ちでいたい。やっぱりこのあたりはクリスチャンだから。
ただ、人間は幸せになるために(いろんな意味で)この世に生きているのだから、この世での経験や働きがあるとすれば、まだまだここにいられるのだと思う。

私の死に対する考え方や感覚は私だけのもので、私以外の人にはあてはまらない。家族や友人が死ぬとなったら、それは全く別問題。のたうち回るし泣き叫ぶだろう。
だからどんなに自分に対してドライな死生観があろうとも、それはそれ、これはこれ。
35才の時にも、病気を知らされて胃を全部とらなきゃならないと聞いても、頭が真っ白だとか帰り道を覚えていないとか、そういう事はなかった。涙もなかった。多分絶対と言っていいほど、この先も同じだと思う。「そうか」と思う。それが私の現実。

そのくせ、今回「もしかしたら」と考えた時に真っ先に頭に浮かんだのは、
「せっかくピアスホールができたのにもったいない!」だった(爆)
手術をするとなったら、ピアスははずさなければならない。まだ安定し始めたばかりのピアスホール。苦労してここまで育てたのに、くそお・・・と思った(笑)
それと、7月の発表会。できるんだろうか、、、それまでのレッスンはどうするんだろう、、、などと考えていた。
アホちゃうか?と思うかもしれないけど、とっさの時に頭に浮かぶ事なんてこんなものだ。
現実はドラマでも小説でもなく、非常に生々しくて、なおかつトンチンカンな事でもある。
嘆き悲しむ親や、宇宙人の子どもたちや、家の様々な雑事を考えるのが大変で、自分の事を悲しむ余裕がないのも本当の事だし。
私はもうそういう事がわかってしまった。だから自分の事ではおたおたしない。
ただ、痛いのはイヤだなと。単純にそう思う。それだけだ。

あと4年は生きていたいと思うのも、やはり4人の子どもの成人を見届けて、なんとか1人で生きていける姿を見届けたいという気持ち。うんこ星人が20才で一人前になっているという保証は全くないけれど、とりあえず。
そして、今持っている中学生生徒たちの将来がある程度見えている時期でもあるから、とにかく仕事の面でもあと4年。
そして、4年後に無事だったら、また新たな数字が設定されているはず。その理由が何なのか今はわからないけれど、今からそれが楽しみでもある。

あくびしたり、昼寝したり、悪態ついたり、グチをこぼしたりする事も含め、生きている事はすばらしい。どんなにツライと思う事にも意味がある。きっとある。無意味ではない。
「今までの経験をもう一度せよ」と言われたら絶対拒否だけど、過ぎてしまった今なら「これでよかった」と言える。
自分の性質や心の中は自分がよく知っている。だからこそ、ウソ偽りなく誠実に生きる。単純にただそれだけ。それができれば私はもうオッケーなのだ。正しいと感じた事をまっすぐに見つめて生きる。そして、それは子どもたちに一番伝えたい事でもある。

もし死ぬ時がわかっているなら、最後のいたずらを残していきたい。
ネットの中であれば「うは~ヤラレタ!」とみんなが苦笑するような。
「やっぱりただじゃ終らないよな」とウケてもらえるような。
泣きながらでもジョークを言える私は、いつもこんな事ばかりを考えている。

長々シツレイしました<(_ _)>
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by kabo518 | 2006-04-01 23:24 | エッセイ風